読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

自動詞が好きな日本人


日本人は自動詞が好きで、他動詞が嫌いだ。日本の辞書を引いてみると、自動詞と注記されている単語がたくさん出てくる。英語の辞書などで、vt.というのがvi.と同じくらい出てくるのとはだいぶ違う。たとえば、心の動きを表す「喜ぶ」とか「驚く」とかいう言葉が自動詞であることなど、いかにも日本語的である。これを翻訳するとto be pleasedのように他動詞の受身の形になる。ドイツ語やフランス語でも、このような場合、自動詞を使わず、再帰動詞という一種の他動詞を使う。が、日本語にはこういったものはない。「私自身を誇る」というような言い方は、もともと日本的ではない。「私を驚かす」と言って「驚く」という意味になるという仕組みはなじみにくい。

 こういったことは、気持を表わす動詞に限らない。外界のことを描写する動詞でもやはり他動詞を使わず、自動詞を使う傾向がある。たとえば、「煮える」「崩れる」といった言葉は日本語的である。こういうものは、もし英語ならば、すべて、「煮られる」とか「崩される」という他動詞の受身の言い方をする。「煮える」は「煮た状態になる」という意味で〈中相態動詞〉と呼ばれるが、このような意味をもった自動詞はヨーロッパ語にはないようだ。

 日本には「煮られる」といういい方ももちろんある。しかし、日本語では「煮える」と「煮られる」は違う。「煮える」は、豆が「煮える」というふうに使う。一方、「煮られる」というのは、人間のような生物の場合で、石川五右衛門という大泥棒は最後に三条河原で釜茹でになったと言われているが、そのような場合には「石川五右衛門が煮られる」という。豆が「煮られる」といったら、昔の人だったら豆が熱かって困っているように感じておかしいと思ったにちがいない。といって、「石川五右衛門が煮えた」と言ったら、やっぱりおかしい。日本人はこういう点ではやかましい区別をして来たということができる。

 池上嘉彦は『「する」と「なる」の言語学』の中で、

  天皇陛下におかせられては、お召しになりました
 
 という例をあげて、「食べる」というような他動詞が「(お召しに)なる」という状態の変化を表わす動詞に言い換えられている例を、日本的な表現の例にあげているが、ここにも自動詞愛用の傾向の現われがある。

 日本人は、「私は妻を持っている」というような場合にも、元来は「私には妻がある」というほうが自然だった。なにか、「私」というものがひとつの場所のようである。結局、これも自動詞表現を好んだ例である。

 いつか、アメリカの映画を見ていたとき、男が自分の恋人である女に自分の父親を紹介したところがあった。そのあとで、相手の女がその男に向かっていうセリフが、

  I love your father.

と言っていた。ところが、日本の字幕では翻訳がなされておらず、

  お父さまっていいかたね

という表現であった。いかにも、このほうが、日本語らしい表現だと思ったことだった。