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センテンスの長さについて

 日本人は、センテンスがはっきり切れてしまうのを恐れた。この結果、日本人は切れんとしては続き、縷々として数ページに及ぶような文をよしとした。井原西鶴という人の文章は、多くの省略があるから、簡潔な文章の見本のように言われるが、センテンスは、板坂元が指摘したように、決して短くはなかった。次の文章は、

 『世間胸算用』の中の一文で、奈良の歳末を描いた名文と言われるものであるが、「-て」「-て」をくり返しながら延々と続いてゆく。

 樋口一葉や、谷崎潤一郎も長文を書いた作家で、一葉の『十三夜』の巻頭の文は、切れんとしては続き、二〇行以上に達している。そうして、戦後の作品でも野坂昭如の『火垂るの墓』など、四〇〇字詰め原稿用紙一枚ぐらいのセンテンスが現われる。

 文学作品から評論文に移っても同じこと。かつて『展望』に載った巻頭論文、蓮實重彦

 「言葉の夢と批評」は、

  たとえば「批評」を繞って書きつがれようとしながらいまだ言葉たることができず、ほの暗く湿った欲望としての自分を持てあましていただけのものが、その環境としてある湿原一帯に漲る前言語的地熱の高揚を共有しつつ漸くおのれを外気に晒す覚悟をきめ、すでに書かれてしまった夥しい数の言葉たちが境を接して揺れている「文学」と呼ばれる血なまぐさい圏域に自分をまぎれこまそうとする瞬間、あらかじめ捏造されてあるあてがいぶちの疑問符がわれがちに……

といった文章で、山鳥の尾のしだり尾の、この二倍ぐらい行ってやっとピリオドになった。

 このように日本語のセンテンスが長いことは、中国語などといちじるしい対象をなす。中国語は文学作品でもセンテンスがいちじるしく短い。

  晋太元中、武陵人、捕魚為業。縁渓行、忘路之遠近。忽逢桃花林。夾岸数百歩、中無雑樹。

  芳草鮮美、落英繽紛。漁人甚異之。…… (陶淵明『桃花源記』)

 ドイツ語は、比較的センテンスの長いのが有名で、たとえばカントの文章などには一つのセンテンスが三ページ以上にわたって延々と続くのがあるという。日本の文章はこの点で、ドイツ語に似ている。が、注意すべきは、ドイツ語ではいくら長文になっても、全体の趣旨は明快だということである。それは、ドイツ文の構造は、主な文章が完全に終り、あと関係代名詞をすえてそれから新しい次の文へつないで行くからである。

 日本語で長いセンテンスを書くと、最初の題目なり主語なりを受ける述語動詞ははるかうしろにいく。そうしてその間にたくさんの小さいセンテンスの卵のようなものが割って入る形になる。これでは聞く人、読む人は、話の中心思想が分からないではなはだ苦しむ。われわれの日本語では、つとめて短いセンテンスで文章を書かなければならない。
『日本語』 金田一春彦