主語や修飾語の省略

  主語以外の補語では、「ある」という動詞の補語が、昔からよく言外におかれる。

 補語の省略 『平家物語』の、

  我世にありし時は、娘どもを女御、后とこそ思ひしか……の「あり」は、その前に「りっぱに」というような語が省かれている。『徒然草』の、

  あるにも過ぎて人は物を言ひなすに……

の「ある」は、その前に「実際に」が省かれている。「たくさんある」という語句も、ただ「ある」と言うことができる。

  「こんな嬉しいことはめったにない」を略して、「こんな嬉しいことはない」という表現は、よく西洋人を驚かす。「嬉しいと言ったらない」。の「ない」は、「ほかに」と「こんな嬉しいことは」という二種類の語句が省かれている。「よい」は、

   「持ってやろうか?」「いいわ」というような時に補語の省略が見られる。「持ってぐれなくても」という語句が竹かれているのだ。「いいわ」の意味で「たくさん」という時の「たくさん」も同様な例だ。この「いいわ」

 「たくさん」の類いは、外国人泣かせの語句として定評がある。この「たくさん」は、文字どおりに解して、「たくさん持ってくれ」の意味にとる方が、たしかに自然だ。

 一般に昔の文では、今の人ならばはっきり言葉に出すようなところを言外におくことが多い。古典作品を読む場合、注意が必要なゆえんである。『源氏物語』の、

  思ひ上れる気色に聞きおきたまへる口むすめなればゆかしくて…… 

は、長年源氏物語の註釈を手がけている北山谿太によると、「人の」ということばが入るべきものという(『源氏物語の語法』)。知らないと、思い上がった様子をしているのはむすめかと誤解するところだ。巻頭の有名な語句「いづれの御時にか」は、同様にして「いづれの」の次に「帝の」が略されている、だからこそ「御時」という敬語が使ってあるのだという。こういうセンテンスを解くのはなかなかむずかしい。

 主語、その他の補語、修飾語の類いだけ残して、それを受けることばをつけないこと、これは日本語に限らず、ほかの言語にも多い。が、日本語では特に多いらしい。これは、日本語の文脈で動詞が最後に来ること、したがって言わないでも察しがつくこと、動詞をいうと断定の語気がこもる、それを避けること、そんなようなことから来るものだ。

  お乗りはお早く  三つ子のたましい百まで〔ことわざ〕

 次の標題もこの応用である。

  春は馬車に乗って     横光利一
  おもちゃは野にも山にも  島崎藤村

 この種の、言葉の節約は、特に女性が多くやる。『金色夜叉』の熱海の海岸でのお宮の言葉、

  貫一さん、それじゃああんまりだわ

もこれだ。つまり、あんまりどうであるかは省略しているが、これが日本的である。A・ロイドの翻訳では次のように、「残酷な」という言葉をはっきり使っている。

 How cruel youare, Kwanizhi !

 こういうことは『源氏物語』の昔からあった。われわれが『源氏物語』を読みにくいというのは、このような場合に形容詞をはっきり使わず、読者に想像させるところにもある。国文学者・折口信夫は、物語文学に多い「あはれにおぼす」という類いの言い方は、「あはれに何々におぼす」という形であるべきものが形容詞の何々が竹かれたものと解釈し、「いとあさまし」とあれば、「あさましく何々」の何々が省略された言い方と解釈した。

中国語以上の簡略表現

 日本語のこのような簡略表現は、時に中国語を上回るということは注意しておきたい。日本人は中国語こそ簡略表現の極致のように思っているが、時には日本語にかなわないようだ。
 たとえば、「我們上街去、惣去疇」(私たちは町へ行きます。あなたは?)と問われた場合、中国語では、

  我也去(私も行きます)

と答えるべきで「我也」(私も)だけではいけないと言う。日本語では「私も」で十分だ。「日本語がしゃべれますか」(恷会講日語疇)に対して、日本人なら「全然」と言える。